イタリア・トリエステ滞在記(平成19年2月25日−3月14日)[1]

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 [滞在記1]

 昨年の同じ時期に台湾に滞在したのと同様,今年もイタリアに滞在する機会がありました.記憶の新しい間に滞在記を書き留めます.

 20年ほど前,在外研究員で2ヶ月ほどイタリア・トリエステを訪ねました.この原稿がアップされているのと同じHPに,その時のことがブタベスト滞在記としてアップされていますのでご覧下さい.ただし,ブタベストの後訪問したトリエステのことは書いていません.その当時のことを思い起こしながら,今回の訪問の感想を書きます.

[1] 20年前(1986年)のこと

 元阪大(その後,東大を経て現在,立命館大)の有本先生のご紹介で,イタリア・トリエステ大学・電気電子情報学科のProfessor Giuseppe O. Longoのところを訪ねました.それ以前の1979年の夏,ここトリエステ(実際は近郊のグリギャノ)で1979年IEEE情報理論の国際会議(1979 ISIT)が開かれ,その時のチェアマンがProf. Longでした.当時のヨーロッパの情報理論,特に情報源符号化の大御所で,絶大な実力を誇っていました.イギリス・ブライトンで開かれた1985 ISITの折,有本先生を通じ受け入れをお願いした訳です.大変快く引き受けて戴きました.

 ブタベストから列車でトリエステに入りました.夜遅くの到着で,1979 ISITで滞在したオーベルダン広場にあるホテルポスタ(これしか知らず,ハンガリーから予約しておいたホテル)に泊まりました.その後,下町のボルサ広場近くの古い建物の4階にあるアパートを紹介され,約2ヶ月間ここから通いました.アパートにはキプロスから来たKobayaci(妙に誰かに似た名前)というトリエステ大学に通う留学生もいました.12月末から2月にかけては,トリエステは大変強い季節風(なんという名前だったか帰国すれば分かります..注1)が吹きます.当時の電力事情は余り良くなく,電気暖房は限られた時間しか通電されず,大変侘しい思いをしたことを覚えています.アパートの管理人には若い娘がおり,帰宅が遅くなると母親と娘の喧嘩が始まります.勿論,イタリア語ですから内容は良く分かりませんが,さすが本場のカンツォーネを聴いているようなけたたましいものでした.マルチェロマストロヤンニの「鉄道員」に出てくる母親も,カソリックの国らしく娘の躾には厳しかったことを思い出し,納得しました.

注1:台風並みの突風を伴う風,「ポーラ」でした.

 滞在中,Prof. Longoの受け持つ女子学生と研究テーマについて議論することがありました.符号理論に関するものだから検討してやってほしいと頼まれました.巡回符号の構造を用いて復号の計算量を低減するものでした.しかし,大変残念なことに,確か1979年の畳み込み符号の計算量に関する研究で有名なJ. K. Wolfらによる論文を見逃していました.目の前で「卒業が出来ない」と泣かれてしまいましたが,どうしようもなく別のテーマに変更を余儀なくされたようでした.

 トリエステ大で用意してくれた居室は,他学部(多分海洋学部)のもので,余り専門とは関係ない話題が多かったと記憶しています.いきなり,フレミングの左手の法則で船は動くか(多分,電磁船のこと)などと聞かれたことがありました.しかし,大変貴重な経験でした.なおこの時の目的は,教科書を書くための資料集めと構想を練ることでした.4年も経ってようやく出版した「理工系のための計算機工学」,昭晃堂がそうです.これは現在の「コンピュータ工学」,培風館の初版です.

[2] 今回の訪問

 今回の訪問の話は,2年半前にパルマで開催された2004年情報理論とその応用国際シンポジウム(ISITA2004)に遡ります.パルマでの学会で自分の発表が終わった直後抜け出し,夜行列車でトリエステを訪ねました.朝早くに到着し,約2時間しか居ませんでした.Prof. LongとProfessor Andrea. Sgarroにお目にかかりました(写真1参照).まだ若いProf. Sgarroとは,以前の時も親しく付き合っていました.そんな訳で,今回の訪問を受け入れてくれたのはProf. Sgarroです.したがって,居室(研究室)は情報数理学科で用意してくれました.どこの大学もスペースには困っているようです.幸い,異動のため空室になっていた元学部長室が与えられました.大変快適です(写真2参照).大学はトリエステ市の東部に位置し,山の中腹にあります.南向きの元学部長室からは南東に山が見えます(写真3参照).この山の向こうには,トリエステでは有名なサングスト教会があります.日曜日に家内と行きましたが,敬虔な信者に混ざって滅多にない静かな雰囲気を味わいました.研究室の前は細長い廊下で,先生方の研究室が並んでいます(写真4写真5参照).先生方は在室の場合,大抵部屋のドアは開けたままです.プライバシーはありません.なお,今回の目的は研究です.いずれお二人と一緒に論文がまとまれば良いのですが,それはこれから頑張らねばなりません.

[3] トリエステ大学と言うところ

 トリエステ大学はフリウリ州という名前の州の(多分)州立大学です.教員はかなり教育の負荷が高いように思います.両先生は講義の他,演習の採点など大変だと言っておられました.どうやら,イタリアと言う時間にルーズで働かないお国柄を立て直す一環で,政府からの指導のようです.もともとイタリアには国(政府)がないというのがお二人の意見のようです.授業は1科目週2回の90分のコマを8個ほど持つのが平均とか.ただし,年齢を取った教授は大変高所得で,しかも担当科目数は少ないと言っていました.この地はアドリア海に面した風光明媚,気候も温暖なリゾート地が隣接し,多くの教授はセカンドハウスを持っているようです.

入学試験は以前から医学部を除いて全入です.学生は金に困らない富裕家庭の子弟と,アルバイトで学資を稼ぎながらの苦学生と二分化されていると言います.市内は比較的バス網が発達しており,学生は1ヵ月40ユーロで乗り放題です.定期券と言うものがなく,顔パスです.その代わり,不正があると相当の罰金が科せられるそうです.一般の乗客はタバッキという店で1ユーロの切符を買い,バスに乗るとすぐ時間を刻印する打刻器(タイムカードスタンプ器のようなもの)に通します.一定時間内(平日は30分,土日曜日は4時間)内であれば,何回でも乗り換えも可能です.バスは何と20年も前の路線・番号が現在も同じで,少し頻度が増え,僅か新路線が増えた程度です.学生は大体英語は話せます.英語を話す機会が余りないのか,英語で話しかけると回りから集まってきます.しかし流暢な学生もいますが,イタリア語のような発音でよく分からない時が多く,細かいことは分かりません.学生の多くはトリエステ出身です.寮はなく,少なくともバスで通学できる学生が大半です.留学生はいますがごく僅かで,アパートに住んでいるようです.しかし次の[滞在記2]で述べるように,トリエステは研究学園都市を目指しているので,学費・設備などでは恵まれていると思います.

 この続きは,多分帰国し少し経ってからになります. 

[平成19年3月9日トリエステ大学研究室にて]

 

  


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