イタリア・トリエステ滞在記(平成19年2月25日−3月14日)[2]

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 トリエステという街は,私にとって不思議な魅力のある街です.イタリアにはローマ大学・トリノ工科大学・ミラノ工科大学・ピサ大学など,我々の分野でも有名な先生いる大学が多くあります.なぜまたトリエステ大学なのか,まずはトリエステの街について印象を書いてみます.以前1986年の知識に,今回の訪問の際,調べた内容を加えておきます.

[1] トリエステという街

 日本ではトリエステの紹介本は大変少ない.旅行ガイドブックにも載っていないと思います.しかし,トリエステ大学では毎年のように国際会議が開催されていますが,余り知られていません.トリエステに関する本としては,イタリア人と結婚した随筆家で有名な須賀敦子の「トリエステの坂道」があります(家内は読んでいたようです).全集にはミラノやベネチア,アッシジなどのエッセイもあります.今回,須賀に師事した岡本太郎の「須賀敦子のトリエステと記憶の町」と言う本を求めました.5年くらい前の比較的新しい本です.実は,出かける前は準備に忙しく帰ってから読みました.写真も豊富ですし,イタリアの専門家の目で歴史・文化を交えた随筆は早くも忘れ始めた街を思い起こしてくれました.また渡伊前に地図くらい入手しておこうと思い,今年の正月明けに アマゾンで見つけたトリエステの市内地図を申し込みました.出発前の2月末,後3週間くらいかかりますと言う連絡.後でもいいと思いましたが,帰国後申し訳ありませんが入手出来ませんとのこと,やはりマイナーのようでした.トリエステの人口は約25万人,八王子の半分にも満たない市なのです.

 まずは,イタリア語のWEBページを見て下さい.内容はイタリア語でよく分かりませんが,ともかくデザインが素晴らしい.特に,アルファベット(当然ローマ字)は実にきれいです.これはイタリア中どこに行っても気付きます. レオナルドダビンチを生み,ドゥオーモを建て,フェラーリを作る国なのです.

<トリエステの紹介>

 日本語のブログも上げておきます.  さて,トリエステの歴史を見てみます.第1次世界大戦前はオーストリア・ハンガリー帝国の海の玄関でした.ドイツ語が公用語でしたが,市民は皆イタリア語を話したそうです.トリエステは自然の良港で,背後はすぐ山です.昔は海運業で栄えていたそうですが,戦いでベネチアに敗れその支配下に入っています.市内中心部には運河があります(ベネチアに比べれば全く比較にならないほど小規模).第2次大戦で米英軍がトリエステを占領した後,ユーゴ(現在のスロベニア)との話し合いで2分割されています.当時の北西半分が現在のイタリア・トリエステです.勿論,ローマ時代からの歴史を持っており,買い物に行ったコープのすぐ隣が約2000年前のローマ劇場でした(写真6参照).

 近代史の中でもトリエステは複雑な運命を持っています.オーストリアになったり,イタリアになったり,ユーゴになったり,また住人の国籍・出身地も様々です.スガロ先生は,自分の父はルーマニア人(ルーマニア出身?)と言っておられました.人種は複雑です.ここでも人種・宗教・政治などは避ける話題なのでしょう.しかし一方,スガロ先生の息子さんは去年高校を卒業し,アイルランドの大学に進学の予定だと聞きました.日本人には考えられないヨーロッパという大陸的な考え方(まさにEU)でしょう.意外にこだわっていないのかも分かりません.

[2] トリエステの印象

 1979年のISIT([滞在記1]参照)に出席したとき,学会がアレンジしたポストイアというユーゴの有名な鍾乳洞へのツアーがありました.私は残念ながらセッションがあったので,家族だけが参加しました.トロッコ電車が鍾乳洞の中を猛烈な早さで走る,安全上今では考えられないようなツアーだったようです.今回是非行こうと思いましたが,路線バスでは日帰りが出来ないことが分かり断念しました.この辺には沢山の鍾乳洞があります.

 3月4日(日)11時に,ホテルのフロントで唯一の市内観光バスがトリエステ駅から出るというので探しました.駅のタバッキの女性店員がきれいな英語を話すので出発場所を何度も確認し,駅の観光案内のデスクにも確かめました.しかし,いくら待ってもバスは来ません.結局,運行は4月からとうことでした.トリエステは観光都市ではないのです.しかし,日曜日なので駅前のバスや車を遮断して,警察主導で自転車レースをやっていたのもイタリアらしい風景でした.そんな訳で,仕方なく路線バスで以前1979 ISITの開催場所グルギアーノに行くことにしました.懐かしい会場は既にホテルではなく,サイエンスセンター(写真7参照)になっていました.3月初めの晴天とあって,多くの人々が日光浴を楽しみながら食事でリゾート地のレストランも一杯でした.28年前を思い出す懐かしいひとときでした.帰りにミヤマーレ城というを訪ねました.

 トリエステ大学に滞在中,いつも10時頃になるとスガロ先生が研究室に顔を出され,別の棟のロンゴ先生を誘ってのコーヒタイムがありました.いつもはカプチーノでしたが,一度エスプレッソにしました.トリエステスタイルというデミタスカップ位のちいさなカップですが,非常にきつく胃の調子が悪くなりました.しかし,彼らは毎日何度も好んでエスプレッソを飲んでいます.コーヒを飲みながら,彼らに日頃分からない小さな質問をします.学生はまるでバスが無料のように思ったのも解決しました.トリエステは何で生計を立てているのか聞いた事もあります.貿易か,金融か,産業か.答えは学園研究都市でした(ただし,現在それを目指している最中).確かに近郊の地図にはサイクロトロン施設があり,リゾート地にサイエンスセンターを作り, 大学行政に力を入れているようでした.寒冷地なので特殊な路線バスの開発をしており,日本からの見学者も多いようです.

 家内が一足先に帰国の折,朝早くトリエステ駅の隣にあるバスターミナルに行きました.まだ暗い入口にやはりバスを待っている初老のおばさんがいました.ドイツ語訛りですが,分かり易い英語が話せる人でした.スロベニア人でトリエステに出稼ぎに来ていると言うことでした.しかし,良い職がなく仕方なしにバスで帰国すると言う話でした.スロベニアでは月300ユーロあれば生活できると言っていました.大変貧しいようです.今年夏には,旧ユーゴもEUに加盟すると聞いていますが,これではお互いに大変だと思いました.やはりここでも格差は大きいようです.加えて,国境がなくなればさらに問題は大きくなります.以前1986年に滞在の折,1979年にUCLAの訪問研究員室で机を並べたスコピエ大学のアクセンティ・グルナノフ先生に会いに行った事を思い出します.当時のユーゴ・ルイビアナまでバスで行き,スコピエに飛行機で往復しました.帰りにイタリアに入国の折,私だけバスから降ろされ,細かくチェックされました.当時,まだ日本赤軍の残党がうろうろしていたらしく,昔の3国同盟の日本人は冷戦では危険だったのです.アクセンティは富豪家で,自宅の彼の部屋には既にPCがあり,BMWを持っていました.ブルガリヤまで案内してくれましたが,同盟国なので国境の出入りは簡単でした.これがEUとなると,全く国境がなくなるのです.

 20年前と比べ中国人が経営する店が相当増えていました.お土産屋・衣料品店・レストランなどの入口に中国風の提灯がかかっているのですぐ分かります.クロアチアやスロベニアから安い商品を求めて買い出しに来るそうです.イタリア人は稼いだユーロを殆ど本国へ送金するので困ると言っていました.韓国人の店もちらほらあります.日本人の店は皆無です.今回のトリエステ訪問で日本人には全くお目にかかりませんでした.  日曜日の朝早く,トリエステでは有名なサンジェスト教会に行きました.珍しい絵画を除いて,差ほど印象は強くありません.それより,帰りの道に沿って多くの墓があったのが記憶に残っています.墓地ではないのにと思いつつ良く見てみると,いずれも1945年没になっていました.多分,戦死者なのでしょう.どこにも水と食べ物のお供えが置いてあります.格好の猫の朝食です.ともかくトリエステは坂が多いのと,野良猫が多いのです(写真8写真9参照).

[平成19年5月5日 自宅にて]

 

  


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